待望のサッカーW杯アジア大会2次予選が今日から始まりました。
FIFAW杯は、国際サッカー連盟(FIFA)主催の男子ナショナルチームによるサッカーの世界選手権大会。
サッカーの大会の世界最高峰と位置付けられ、全世界のテレビ視聴者数や経済効果はオリンピックを凌ぐ
世界最大のスポーツイベントと位置づけられております。
6大陸毎に出場枠が決められており、各大陸毎の予選を通過した計32ヶ国に参加の権利が与えられます。
アジアの参加枠は4.5+Hです。ここで、Hは主催国に自動的に与えられる権利で、今回はカタールです。
従って、残りの0.5ヶ国をオセアニアと南米で争うことになります。
但し、32ヶ国体制は2022年のカタール大会までで、2026年の北米大会以降は48ヶ国体制なります。
その場合、アジアに8ヶ国の出場枠が与えられます。
日本とミャンマーは、FIFAランキング上位34チームに入るため1次予選が免除されて2次予選からのスタート
、残る12チームが2チームずつの6組に分かれてホーム・アンド・アウェーで対戦し、勝利した6チームが
2次予選に進出します。こうして、1次予選免除の34チームと1次予選勝利の6チーム、合計40チーム
を5チームずつの8組に分け、ホーム・アンド・アウェーの総当たり戦を行うことになります。
日本は籤運に恵まれ、少なくとも日本から見て強国が見当たらないF組に入りました。 |
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9月10日時点でのF組の勝敗表 |
今日その初戦が敵地ミャンマーの最大都市ヤンゴンに在るホームグランド「トゥウンナ・スタジアム」
で行われました。ミャンマーはFIFAランキングこそ、日本の33位に対して135位と低いのですが1960年代
ではアジア有数のサッカー強国でした。
英領だったビルマ(現在のミャンマー)は長くアジアトップレベルの強国で今からおよそ100年前、日本に
留学していたビルマ人青年の指導によって日本のサッカーはプレースタイルの基盤が築かれ、飛躍的な進歩
を遂げ現在に至って至っておりますので、ミャンマーが日本にサッカーを伝授したことになります。
「日本サッカーの恩人」ともいえるそのビルマ人青年の名は、チョー・ディン。ディンさんは1920年頃から
東京高等工業学校(現在の東京工業大学)で学ぶ学生でした。日本では陸上競技の棒高跳びをしていたが、
母国では小さい頃からサッカーをしていたという。
ディンさんの存在が全国に知られるようになったのは、早稲田高等学院を指導したことがきっかけだった。
コーチを受けた早稲田高等学院は、現在のインターハイにあたる全国高等学校ア式蹴球大会で2連覇を達成。
それによって指導力が注目されたディンさんは以降、全国を巡回して各地でコーチをするようになりました。
指導のために『How To Play Association Football』というコーチングの本も執筆し、1923年には教え子
たちの協力によって日本語版が出版された。当時の日本にはなかった写真や図を多用した理論的なテキスト
で、それによりディンさんのコーチングは本格的に全国に波及。黎明期の日本サッカーに与えた影響は計り
知れないものでした。今日のミャンマー戦を観戦した日本人サポーターで、日本がミャンマーにサッカーを
教えて頂いたことを知っている方は殆どいないのではないでしょうか。
試合会場の「トゥウンナ・スタジアム」は収容能力32,000人 のミャンマーで最大の多目的スタジアムであり、
ミャンマーの国立競技場で国際サッカー連盟や国際陸上競技連盟の基準を満たし、国際試合を開催可能な
ミャンマー初の施設とのことですが、ピッチは泥まみれで、芝は刈り入れされてないため高さは不均等、
国際試合を行う競技場とは思えない状況でしたが中島選手は試合後「このピッチに感謝する」と語ってました。
前半16分、MF堂安律(PSV)が高い位置で相手からボールを奪い、ショートカウンターに。パスを受けた中島
は左サイドを上がり、ペナルティーエリア左外から強烈なミドルシュートを放つとボールは綺麗な曲線を
描いてゴールネットを突き刺し先制しました。 |
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先制ゴールの中島 |
堂安がペナルティーエリア内で強烈なシュート。これはGKに弾かれたが、ボールは再び堂安の元へ。
堂安はもう一度シュートを撃つと見せかけてDFラインの裏へクロス。これにフリーで待っていた
MF南野が頭で合わせ、2戦連続となるゴールを挙げて2−0。 |
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2点のリードを守り攻め立てる日本は35分に中島と代えてMF久保を投入。久保はこれでW杯アジア予選
最年少出場記録を更新した。
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