今日の敬老の日に因んで、福岡市の老人ホームで元気に生活されている世界最高齢の田中カナ子(116)
さんのことがテレビで話題になりました。花束を手渡された福岡県知事にはっきりした口調で「皆さん
のお世話になって生きてこられた。今持っている力をみんなにあげたい」と言葉を述べられました。
全国の100歳以上の高齢者は7万1,238人と、初めて7万人を超えました。
厚生労働省によると2019年度の全国の100歳以上の高齢者は71,238人に及び初めて7万人を超えました。
私は80歳を越えておりますが、この歳ではまだまだ若輩者と心得ております。
その理由は、両親も祖父母も私より高齢で他界しているからです。
特に、母方の祖父は江戸時代の文久2年(1862年)の生まれで、仮に現在生きていたら157歳です。
私が小学生だった頃、祖父は次のような自慢話をしてくれたことを未だによく覚えております。
・東海道線を走る最初の蒸気列車を田んぼから見送ったこと
・西郷隆盛が東海道を馬に乗って下野して行く様子を見送ったこと
・清水次郎長が子分を引き連れて東海道を往くのを見送ったこと
これらの明治維新を象徴する歴史的事実を祖父からから語り継いだことは私の誇りですが、これを語り継
ごうと思っても、娘や孫達には全く受け継ぐ思いは無く未だにその思いを果たしておりません。
父は明治42年生まれで99歳で亡くなりました。
父は伊豆下田の酒屋の養子として育てられましたが、その義理の両親に実子が誕生したことから、相応の
資産を与えられ同じ静岡県の焼津のとある家に再び養子として追い出されました。
焼津水産高校の一期生として入学してから鰹船の船員、その後信用組合の立ち上げに参画、更には後に騙
されたことが発覚したのですが醤油の製造を手掛けて失敗するなど不幸な人生を送っていたようでした。
父は、生来の女好きで、私が小学校時代は1年のうち半分ぐらいは妾の家で過ごしていたように思います。
比較的頭が良く、面倒見もよかったこともあって家業の飲食店の組合の組合長に祭り挙げられ、そつなく
こなしたことから大臣から表彰を受けたこともありました。
その父は、私と兄が国立大学に進学することが決まってから、酒、煙草、賭博、女等、全てを断ち切り
資産の借家を全て売り払って進学費用に充てました。特に、私は名古屋での下宿生活でしたから父からの
仕送りだけでは足りず、奨学金とアルバイトで不足分を補充しておりました。
その父が、奨学金の一部を私に知らせること無く返済していたことを知ったのは卒業後のことでした。
父は、死亡診断した医師によれば直接の死因は癌でしたが大往生だったとのことでした。
一方、母は当時は静岡県志太郡豊田村の豪農の10番目の末娘として大正2年(1917年)に生まれました。
実家の豪農は庄屋を営んでおり敷地内に蜜柑畑、梨畑、小作人達の住居、更には清流が流れておりました。
この清流で、近所の子達と水泳して遊んだのを覚えております。
母は、当時としてはまだ進学者は少なかった高等女学校(現在の静岡県立藤枝西高)に進学後、裁縫学校
に入学し、当時としては珍しいミシン(シンガー)を購入して、実益も兼ねて裁縫に勤しんでいたようです。
父との結婚は見合いでしたが、後に妾を囲うような遊び人の父の素性など知る由も無かったことでしょう。
母は100歳頃までは一人で歩けるほどでしたが、転んで骨折してから急激に体力が低下、有料の老人養護施設
に入所して1年後に、医師に因れば見事な大往生とのことでした。
私が、最後に母に会ったのは、その施設のベッドの上でした。
担当者によれば、介護者が若い男性ですと母は喜んでいたとのことでした。
私が母に声かけしても知らぬ振りなのに、担当の若い男性が声かけしたら微笑みました。
それから1ケ月ぐらいして母は父のもとに旅立ちました。
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