−日記帳(N0.2119)2019年08月15日−
74回目の終戦記念日を迎えて
−日記帳(N0.2120) 2019年08月16日−
私の戦争体験を通して



海上自衛隊・静浜基地(画面左下の矩形部分 赤い矢印の先が実家が在る所)


74年前の8月15日は、よく晴れた暑い日でした。
昼の12時から天皇陛下がラジオでお言葉を述べられることが、前日14日の21時のニュースで伝えられ、
全国民が聴取するように徹底されておりました。

私は静岡県の実家で、後に「玉音放送」と呼ばれた昭和天皇の肉声を初めて聞かせて頂きました。
小学生の私には、陛下のお言葉の意味を理解できませんでしたが、父の教えて敗戦と知りました。
その時のラジオは「並四」と呼ばれており、野球好きな父がこのラジオで高校野球を聞いてました。


「並四」ラジオ

終戦から74年を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京の日本武道館で開かれました。
令和最初の追悼式には、天皇、皇后両陛下、安倍首相、全国の遺族ら6,497人が参列し、初めて参列された
天皇陛下はお言葉で、上皇さまが使われた「深い反省」の表現を踏襲し平和を思う気持ちを示されました。

                      

私の戦争体験と言っても、戦地に赴いたわけではなく、静岡の実家に居た頃、米軍の攻撃を受けただけで
、幸い人体や家屋に被害は有りませんでした。
ただ怖い目に遭ったことは数々有りますので、ここに書き留めておきたいと思います。

(1)海水浴中に米軍機に機銃掃射されたこと。
(2)家の庭に焼夷弾が落下したものの不発だったため難を免れたこと。
(3)実家の近くに在った海軍特攻基地を狙って爆弾が投下されたこと。

(1)は、終戦間近の夏の日だったと思います。敵機が近づけば空襲警報が鳴るのですがサイパン島が陥落して
からサイパンの基地から頻繁に本土に敵機が飛来する及んで空襲警報は迅速かつ的確に発令されなくなって
いたように思われます。空襲警報を無視して海水浴に行ったとは考えがたいからです。
幸い、浜辺に陸揚げされていた漁船に逃げ込んで難を逃れましたが、あの時の機銃掃射音は今でも耳に
残っております。

(2)は、空襲警報が発令されると、家族全員が庭の片隅の地下防空壕に身を隠します。ある日近くに焼夷
弾が投下されました。の海軍特攻隊基地を目標に投下された焼夷弾の1発が大きく外れて我が家の庭
に落下したのです。
防空壕からその落下音が聞き取れました。

警報が解除されてから恐る恐る庭を見渡したところ、六角型の焼夷弾一発が発見されました。
これは、M69焼夷弾と呼ばれており、直径は約7.6cm、全長は約51cmでした。
これをどのように処分したかの記憶は残っておりません。

六角型の焼夷弾 M69

(3)での海軍特攻基地は現在、航空自衛隊静浜基地となっております。
戦前、ここは海軍航空隊・芙蓉部隊として、彗星、零戦が配置され美濃部少佐が指揮を執っておりました。
彼は、特攻より夜間攻撃の方に利があるとして大きな戦果をあげております。
戦後、ここに放置されていた零戦の窓の破片を持ち去り、擦ってその芳香臭を嗅いだことを覚えております。


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