−日記帳(N0.1833)2016年08月07日−
イチロー3000本安打達成
−日記帳(N0.1834) 2016年08月08日−
天皇陛下お気持ちをビデオメッセージ


イチローMLB通算3000本安打達成



イチロー選手がついにMLB通算3000本安打を達成しました。 MLB140年の歴史の中で3000本安打達成者は30人しかおらず、29人目として1972年にロベルト・クレメンテが達成して以来44年ぶりの大記録となり、この結果イチロー選手はMLBの「3000本安打クラブ」入りしました。

あと1本として迎えたロッキーズ戦に6番右翼で先発し、7回の第4打席で右越えの三塁打を放ちMLB通算3000本安打を達成しました。この瞬間、全米は大騒ぎとなり、放送席でのアナウンサー声が絶叫に変わりました。日本ではオリンピックもあり、時差の関係で生中継されなかったこともあってそれ程話題にはなりませんでした。

試合が中断され、チームメートが三塁へ駆け寄り、敵地ファンも総立ちで球場全体が偉業を祝福しました。ゴードンを皮切りに、最後はボンズ打撃コーチと抱擁しました。

イチロー選手が凄いのは、19歳でオリックス入団以来、今日に至るまでの23年間、毎年公式試合に出場していることです。その間、怪我や病気に罹ったことは有りましたが、それを克服してこの大記録を達成しました。彼は次のように語っておりました。

「この2週間強ですね……。ずいぶん、犬みたいに年取ったんじゃないかと思うんですけれど、あんなに達成した瞬間にチームメートたちが喜んでくれて、ファンの人たちが喜んでくれた。僕にとって3000という数字よりも、僕が何かをすることで、僕以外の人たちが喜んでくれることが、今の僕にとって何より大事なものだということを再認識した瞬間でした。」ベンチへ戻り、鼓動が静まると、サングラスの奥をひと筋の涙が頬を伝わりました。

数々の偉業を遂げ、「記録慣れ」したはずでも、重圧との闘いは避けて通れなかった。3000安打まで残り2本となってから、7試合、11打席で無安打に終わった。代打起用が多くなり、安定した打撃を続けることが難しくなった。さらに重圧が加わり、日増しに表情は険しくなった。「人に会いたくない時間もたくさんありました。だれともしゃべりたくない。なかなかうまくいかず、という苦しい時間でした」と吐露しておりました。

プロ入り以来、「技」と「心」の間で、せめぎ合いの日々を過ごしてきた。技術的に最上の感覚をつかんでも、容赦ない周囲の視線や逆風による重圧と闘うことはしばしばあった。10年連続でシーズン200安打、WBC決勝…。食事が喉を通らず、吐き気をもよおすほど「心」が追い詰められても、最後に頼れるのは「技」だった。

 マ軍へ移籍した昨季は、153試合に出場しながらも91安打、打率2割2分9厘と自己ワーストに低迷。「目を疑うような数字」と振り返った。迎えた今季は、昨年の白木バットから漆黒に戻した。通常の1度塗りではなく、入念に2度塗りした黒バットは、わずかな傷でも判別しやすい。単なる色違いというだけでなく、メジャー1年目から使い慣れた黒は、イチローの技の「原点」でもあった。

 打撃の微調整も例年より早めに着手し、年間最多262安打をマークした04年当時に近い、バットのヘッドを少し寝かせた形に落ち着いた。例年のスロースターターが、今季は開幕までに確認を完了。出場機会の少なかった4月は10安打に終わったが、好感触はつかんでいた。親しい関係者に「感覚が戻った」と漏らしたのも、そのころだった。

球界最年長野手となった今季、ピート・ローズを超え、ついに3000本も超えた。「この先は子供の時のように…。プロである以上、それは不可能なことですけど、感情を無にしてきたところを、うれしかったらそれなりの感情、悔しかったら悔しい感情を、少しだけ見せられるようになったらいいなと思います」と柔らかな笑みを浮かべた。

3000本安打となる三塁打を放つイチロー選手

天皇陛下は8日、象徴としての務めに関するお気持ちをビデオメッセージで表明された。高齢に伴う身体の衰えを考慮し、「全身全霊をもって務めを果たしていくことが難しくなる」との思いを明らかにしたうえで、公務を縮小していくことや、天皇の活動を代行する「摂政」を置くことでの対応には否定的な気持ちを表した。「天皇は国政に関する権能を有しない」との憲法の規定を踏まえて制度に関わる言及を避けつつ、生前退位の意向が強くにじむ内容となりました。



「戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。 私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

 本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。

天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。

皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

 始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 国民の理解を得られることを、切に願っています。 」

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