−日記帳(N0.1805)2016年05月17日−
清原和博被告に懲役2年6カ月求刑
−日記帳(N0.1806) 2016年05月20日−
タレント なすび 4度目の挑戦でエベレスト登頂成功


送検される清原被告を乗せた車

エベレスト登頂に成功してガッツポーズのタレントのなすびさん


覚醒剤取締法違反の罪に問われた元プロ野球選手・清原和博被告(48)の初公判が5月17日、東京地裁で開かれました。清原被告は「間違いありません」と起訴内容を認めた上で検察側は懲役2年6カ月を求刑し、弁護側は保護観察・執行猶予付きの判決を求めて結審しました。判決は31日に言い渡されることになっております。

「執行猶予」は、3年以下の懲役又は禁錮の刑でその執行を猶予し、その執行猶予の言渡しを取り消されることなく猶予の期間を経過したときは、刑の言渡しが失効されます。つまりは猶予期間を大人しく過ごせば無罪放免となる訳です。

「保護観察付執行猶予」は、執行猶予は付けるものの猶予期間中、定期的に保護司のところへ現状報告義務を課すものです。 弁護側として「執行猶予付」を求めるのは当然ですが、清原被告が敢えて被告に不利な「保護観察付執行猶予」を求めております。 清原布告は「保護観察付執行猶予」の存在を刑事から聞いて、自ら求めたと言われております。清原被告は自力で執行猶予期間を無事に過ごす自信が無かったものと思われます。

清原被告の裁判の傍聴券を求める人のリストバンド

ここで、問題になっている覚醒剤について、過去に当サイトに掲載されて記事から改めて説明してみたいと思います。まず覚醒剤は、1951年(昭和26年)6月30日に公布されて覚せい剤取締法第二条によって規制されております。

第二条 この法律で「覚せい剤」とは、左に掲げる物をいう。
一 フエニルアミノプロパン、フエニルメチルアミノプロパン及び各その塩類
二 前号に掲げる物と同種の覚せい作用を有する物であつて政令で指定するもの
三 前二号に掲げる物のいずれかを含有する物

代表的な覚せい剤2種の化学構造式

この分子構造式は薬品としては極めてシンプルで、火力発電所や家庭用で使われるLPG(液化天然ガス)の主成分のプロパン(CH3-CH2-CH3)の誘導体と考えることができます。つまり、プロパンの1の位置にフェニル基、2の位置に上図ので表される置換基が結合しておりますので、1フェニル 2(置換基)プロパンで表示され、=NHCO3の場合は、フェニルメチル・アミノプロパン=NH?の場合は、フェニルアミノプロパンが化学名となります。

フェニルメチル・アミノプロパンは薬品名をメタンフェタミンとして大日本製薬(現在の大日本住友製薬)から「ヒロポン」、フェニルアミノプロパンは薬品名をアンフェタミンとして武田薬品工業から「ゼドリン」の商品名で1941年にそれぞれ発売されておりました。現在、問題になっている覚せい剤の100%近くは、このうちのメタンフェタミン、旧商品名「ヒロポン」です。

当時は、戦時下でもあり今日のように民間人が医療目的以外でこれらの覚せい剤を使用することは稀で、一部医療用途に医師の処方箋のもとで使用されていたようですが、多くは軍事目的に使われていたようです。 この覚せい剤、メタンフェタミンを使用すると、中枢神経が刺激されて興奮を覚え、疲労感が軽減し、気分が高揚されて陽気な気分になり、多くを語りたくなって幸福感、爽快感に浸るようになると言われております。

更に、セックス時に服用すると、男性は持続力、女性は全身が性感帯になって性感がそれぞれアップすると言われていることから、一部の若者たちが服用に興味を抱くようになるようです。更には、夜の仕事や交遊で寝不足の状態で昼間、仕事する芸能人、スポーツ選手がその場面で集中力を高める必要性に迫られて使用するケースも当然有り得るように思われます。

戦時中は、覚せい剤のこのような効用を利用して、兵士や軍需工場等で働く労働者に使用させて、疲労の除去を図り、戦闘意欲や作業能力、生産能力を高めたと言われています。特に、命を賭けて敵の目標目掛けて 戦闘機を操縦する特攻隊員、夜間攻撃隊員などには即効性のある注射用アンプルが支給されていたことからこれを注射して離陸していったことはよく知られております。戦後、そのためにその副作用に苦しんだ元隊員の話などをこの際メディアは紹介することで、覚せい剤の弊害を世に訴えるべきと思いますが、ネットで調べた範囲では見当たりませんでした。

終戦後、軍部が所蔵していた注射用アンプルが闇ルートで世間に出回り、更には印鑑を持参すれば薬局で購入出来たこともあって一気に広まり乱用者が増加し、メタンフェタミンが社会に蔓延し多数の依存症患者を生み出す事態になりました。私が中学生の頃、メタンフェタミンの商品名の「ヒロポン」は日常会話でもよく交わされ、現に服用していた友人も居たことを覚えておりますが、使用そのものが現在のように害悪視されていなかったことも事実です。

以上のような経過を辿り、戦後日本では次のように3回に渡って覚せい剤乱用の時期が繰り返されました。

第一次乱用期(昭和20年〜昭和30年)
ヒロポン乱用期とも呼ばれ、ピークの昭和29年(1954年)検挙人員は5万6千人に達しております。 当時は、現在のように、覚せい剤に関する規制は、薬事法による販売者に対する規制しかなく、末端乱用者の所持や使用を取り締まることができなかったことが乱用を高めた原因になったことから昭和26年に、「覚せい剤取締法」が制定され、輸入、製造、譲渡、譲受、所持、使用が原則禁止されることになりましたが法的な不備から徹底しませんでした。漸く昭和29年と30年に取締りの強化を目的とした覚せい剤取締法の改正が行われた結果、乱用は急速に鎮静化し、昭和30年頃までに日本国内での密造が一掃されました。

第二次乱用期(昭和45年〜平成8年)
改正覚せい剤取締法の効果で沈静化していた乱用が、昭和45年頃から再び息を吹き返し、昭和59年の検挙人員約2万4千人をピークに2万人台のの状態が続きました。その原因のひとつに、暴力団の関与が有ったことも含めて昭和48年に覚せい剤取締法の大改正が行われ、法定刑の引き上げ、覚せい剤または覚せい剤原料の輸入等の予備罪等の新設が行われた結果、再び沈静化していきました。

第三次乱用期(平成10年から現在まで)
平成10年1月、国会で第三次覚せい剤乱用期への突入宣言が出されました。突入した原因として、(1)それまでの台湾、韓国に加えて中国、北朝鮮で大規模な密造が始まって多量の覚せい剤が我が国に流入しつつあること、(2)従来の暴力団に加えてイラン人等来日外国人の密売組織が参入し、街頭における無差別密売により覚せい剤入手が極めて簡単にできるようになっていること、(3)薬物乱用に対する罪悪感が希薄化し若者の間ではファッション感覚で弄ぶ風潮さえ生じていること、(4)昭和50年代に1万円程度だった1回分(約0.02グラム)の末端価格が2千円程度にまで下っていることなどが挙げられます。

このように、密造が盛んに行われるのは、先にも述べたように、メタンフェタミンの化学構造がシンプルである上、原料となるエフェドリンが容易に入手出来ることにあります。エフェドリンは咳止め大衆薬でメタンフェタミンのメーカーである大日本製薬(現在の大日本住友製薬)がエフェドリン・ナガヰ錠としてある時期までは薬局で自由に購入できましたが、最近は規制が厳しくなり市販されなくなりました。しかし、個人輸入、ネット経由で入手する方法が有りますが、ここで紹介することは差し控えます。

エフェドリンがメタンフェタミンの原料として有効なのは、その構造式がメタンフェタミンに酷似しているからです。冒頭にメタンフェタミンの構造式を図示しておりますが、この中でCH3基(メチル基)がOH基(水酸基)に変わったのがエフェドリンです。従って、このOH基をCH3基に置換させるアルキル化反応を行えば直ちにエフェドリンからメタンフェタミンを作ることが出来ます。

こうして作られたメタンフェタミンを精製すれば、高純度のメタンフェタミンの結晶粉末が得られます。現在、密売されているメタンフェタミンは殆どこのタイプです。この粉末約0.02グラムを加熱すると溶けて、成分が気化するので、ガラスパイプなどを用いて吸引するのが一般的な使用方法です。気化せずに残った塊は再使用できることから、使用者は使用後捨てずに残すことが発覚に繋がっているようです。

覚せい剤使用の問題点は、急性中毒により死亡することも有りますが、続けて使用するすることによる依存性にあります。このような依存性は覚せい剤のみならず、麻薬、鎮静剤、アルコール等にも見られ最終的には心身ともにボロボロになり廃人同様になり、最悪死にも繋がりかねません。将来、国を担っていく若者たちが、覚せい剤使用によりこのような依存性の中毒症状になるのは、本人のみならず国にとっても重大な問題です。

清原被告は、引退した2008年からほぼ8年間もの間、覚せい剤を使い続けているので、その依存性がら脱却することは容易でなくはありません。今後、一人で自宅で過ごさずに、施設に入所して保護監視の下で少なくとも猶予期間を過ごすべきと思います。

昨年こそ、ネパールの地震の影響で、エベレスト登頂者はゼロでしたが、今年は順調に 登頂者数は増えており、下図の資料から予想されるように、700人以上の過去最高を記録するのではないかと思われます。

エベレスト登頂者数の推移

そのため、エベレスト頂上付近の登山道は下の写真のように登山者で渋滞し、ボンベの酸素が欠乏して酸欠死する場合も有るようです。

エベレスト登頂者で渋滞の


懸賞金生活で名をはせた、なすび こと浜津智明さんが今日、5月20日、エベレスト登頂に成功したことが報じられ話題となりました。彼は、2013年、東日本大震災で被災した故郷・福島県の復活と再生を祈願しエベレスト登山を試みたものの、山頂から100メートル下で無念の撤退となり、翌2014年にも募金で再挑戦したものの、大規模な雪崩発生によりシェルパが登山をボイコットしたため登頂を断念しました。

この時、タレントのイモトさんもエベレストに挑戦しましたが、同様の事情により断念しております。 2015年に再び募金で数百万円集め、三度目のエベレストに挑みましたが、4月25日に発生した大地震と、ベースキャンプで起きた氷河崩落事故の影響で再び断念しております。

一般人が、単独でエベレストに登頂することは極めて難しく、登山を対象とする団体に入り指導を受けるのが一般的です。 日本人最多のエベレスト登頂5回の記録を持つ近藤謙司さんが主催する「アドベンチャーガイズ」にナスビさんは入会し、今回はこのクラブに所属する4人の同行者(近藤謙司、伊藤伴、西田幸樹、日比野純雄)とともにエベレスト登頂しました。

この結果、日本人のエベレト登頂者は別表のようになりました。

タレントのなすびさん

なすびさん、近藤謙司さん

近藤謙司さんさん

アドベンチャーガイズの仲間たち

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