−日記帳(N0.1793)2016年04月18日−
桂浜、四万十川、道後温泉宿泊
−日記帳(N0.1794) 2016年04月19日−
松山城、金刀比羅宮、瀬戸大橋、帰着



マスキャラの「よしあきくん」を前にして望む松山城


ホテルを8時に出て、坂本龍馬像の在る桂浜にいきました。像は想像していたより大きく思えました。 1928年に龍馬ファンからの寄付金により造られ、建設から70年を超えた1999年、全国の有志により大がかりな修復が行われました。


この後、四万十川遊覧をしました。高知県の西部を流れる渡川水系の本川で全長196kmの四国最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっております。本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」と言われ、柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一つ」と呼ばれております。

沈下橋付近の四万十川

四万十川の流れを観ながら、船頭さんの話に耳を傾けながら遊覧の屋形船の中で昼食を摂りました。 四万十川は一見、静かな清流と思いがちですが、ひとたび大雨が上流に降ると激流と化し、その水嵩は橋をはるかに上回るため、この川に架けられている橋は水中に沈下することを前提に設計され「沈下橋」と呼ばれております。

沈下橋

上の画像は、遊覧船で食事中に撮影した、沈下橋を走行中のプリウスです。四万十川の恐ろしさを下の画像が伝えております。この家の外壁に、四万十川洪水時の水位が示されております。2階の天井近くまで水が押し寄せたことを物語っております。それでも、めげずにここに住み続けている人のたくましさが伝わってくるようです。

四万十川洪水時の水位を示す家の外壁

この夜は、道後温泉のホテル・ルナパークに宿泊しました。遅い夕食を終えてから道後温泉街に入湯を兼ねて散歩に出かけました。道後温泉本館で入湯し、3階の「坊ちゃんの間」でしばしの間、ここで漱石が「坊ちゃん」を執筆したことに思いを馳せながら寛ぎました。

坊ちゃんの間

ここで、小説「坊ちゃん」で道後温泉に触れている一文を転載しておきます。

温泉は3階の新築で上等は浴衣(ゆかた)をかして、流しをつけて8銭で済む。その上に女が天目へ茶を載(の)せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると40円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢(ぜいたく)だと云い出した。余計なお世話だ。まだある。湯壺(ゆつぼ)は花崗岩(みかげいし)を畳(たた)み上げて、15畳敷(じょうじき)ぐらいの広さに仕切ってある。大抵は13・4人漬ってるがたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見済(みすま)しては15畳の湯壺を泳ぎ巡(まわ)って喜んでいた。ところがある日3階から威勢(いせい)よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗(のぞ)いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼(は)りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札(はりふだ)はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚いた。何だか生徒全体がおれ一人を探偵しているように思われた。くさくさした。生徒が何を云ったって、やろうと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情なくなった。それでうちへ帰ると相変らず骨董責(こっとうぜめ)である。

ロープウエーで松山城を見学しました。狭い階段を昇って天守閣に行き、周囲を見渡しました。松山城は戦場になったことこそ有りませんが、築城以来数々の火災に遭っております。大天守は、現存12天守(弘前城 松本城 丸岡城 犬山城 彦根城 姫路城 松江城 松山城 丸亀城 松山城 宇和島城 高知城)の1つで、これを含む21棟の現存建造物が国の重要文化財に、城郭遺構が国の史跡に指定されております。

松山城の雄姿

松山城見学を終えて、錦鯉と果物市場・りんりんパークーで昼食を摂ってから金刀比羅宮に向かいました。

金刀比羅宮・本殿

中学の修学旅行の時には、難なく登り切った全1368段の階段を指定時間内できる体力は私には有りませんので100段目の一之坂鳥居で休憩しながら待つことにしました。 。

金刀比羅宮の100段目一之坂鳥居

そして、瀬戸大橋記念公園見学をもって今回の四国旅行の全ての行事を終えました。

瀬戸大橋記念公園のタワー

JR坂出からマリンライナーでJR岡山に出て、新幹線で帰名しました。久しぶりに新幹線車内で駅弁を食しました。JR名古屋駅に20:33 に到着し、名鉄急行で知多半田、タクシーで10時頃帰宅しました。

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