−日記帳(N0.1725)2015年11月26日−
母の死に思うこと
−日記帳(N0.1726) 2015年11月27日−
亡母の葬儀に参列して


静岡県焼津市にある介護老人福祉施設「つばさ」

焼津で行われた亡母の葬儀の祭壇


夕刻6時半頃、入浴中に電話が有り妻が受話器をとり何やら話しておりました。実家の兄からで、療養中の母が今朝亡くなったとのことでした。 「虫の知らせ」だったのでしょうか。今月11月12日、たまたま実家が在る焼津で行われた大学同級会を終えたた翌日、療養中の特養に赴き、ベッド上の母に面会してきました。

母は静かに息を引き取ったとのことで、兄によれば大往生とのことでした。恐らく、母には意識は無かったと思います。神様は永く命を全うした人には苦しむことのない老衰死を迎えられるよう配慮されているのだと思います。

老衰死は苦痛を伴わないと言われております。老衰は腸内細胞が減少することから始まりその結果、食事を摂っても消化されないため飢餓状態になり、脳内モルヒネ様物質が分泌されます。すると意識レベルが低下し酸欠状態になり炭酸ガスが溜まって麻酔状態を誘起し、気持ちのいい夢うつつの穏やかな状態になります。

私が10代未満の幼いころだったら、母の死は悲しくていたたまれなかったことと思います。しかし母は100歳を越え、私も70歳を超えると神様のご配慮により、母は認知症となって私を自分の子と認識できず、私も母の死をいたたまれないほど悲しく思うことはありません。

死期を控えての認知症は、本人とその遺族の悲しみを和らげるように思います。こうして母は息子である私を認識できないまま去って行きました。11月29日の通夜と翌日の葬儀で普段会っていない親戚の人たちと再会できる場をきっと母は願っていることと思います。母との思い出を以下に書き出してみました。

・小学校の入学式に母と手を繋いで登校したこと
・焼津の浜辺を母につれられて散歩したこと
・アブラムシが現れ、悲鳴をあげて逃げ回ったこと
・ちょっとした地震でも「大変だ!大変だ!」と外にでたこと
・愛猫のシロが死んだ時、悲しみのあまり3日間寝込んだこと

母は、今は焼津市に合併されましたが、旧藁科村の地元の有力者の10番目の末娘として裕福な家で生まれ育ちました。当時では珍しい高等女学校を卒業し、父と見合い結婚をして今の実家に嫁ぎました。

私は、母の父親、つまり私の祖父が大好きで、よく祖父に遊んでもらいました。文久2年(1862年)生まれの祖父は村長も務め、政治や社会に興味を持っていたことから、いろなことを教えてくれました。

東海道線一番列車(1889年)を畑から見送ったこと、清水次郎長一家や西郷隆盛等が東海道を歩いているのを見たことなどを話してくれました。また、祖母にも可愛がってもらいましたが、その祖母が足を骨折したことが原因で急逝したことを微かに覚えております。

父は、現在は日本でも数少ない漁業専門の高校、焼津水産高校の第1期卒業生となり、卒業後はカツオ船の乗組員として活動したこともありました。このようにいろいろな経験をしていたことが買われて、同業の飲食店組合の組合長を永く務め通産大臣から表彰を貰ったこともありました。

その父が7年前に亡くなった時、車椅子に乗っていた母が葬儀場から出た時、声を震わせて泣いていたのが思い出されます。そんな母が亡くなったのに声を出して泣くことも無く、こうして淡々と母との思い出を綴っていく自分が居ることに、何かもの悲しく寂しさを覚えます。 オフクロよ、サヨナラ。

母が入院していた特養のベッド

亡母の葬儀に参列するために東名高速を利用して帰省し、焼津市郊外のハ楠にあるホテルルートインに宿泊しました。夕方6時からの通夜に参列しました。50人近い参列者の中で見覚えのある方は十数人でした。

富士葬祭さんの世話により通夜は営まれました。兄夫婦、甥夫婦とその親戚の方々、凡そ30名ぐらいが参列されました。実家の宗旨は時宗であることから、焼津の普門寺の僧侶の読経で営まれ8時前に終わりました。

通夜の情景を撮影していたプロのカメラマンの40台と思しき女性カメラマンと懇意になり、いろいろと話を聞かせて頂きました。彼女は母を胃瘻で世話しているとのことでした。明日、再会できるものと期待してたのですが葬儀には来られませんでした。近くの丸善製麺で夕食を済ませてからホテルに戻りました。

源義経ゆかりの焼津の普門寺

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