−日記帳(N0.1717)2015年11月07日− |
グランプリ中国で真央ちゃん復活の優勝 |
−日記帳(N0.1718) 2015年011月11日− |
故郷 焼津での母校の同窓会に出席して |
![]() |
華麗に舞う浅田真央選手> |
![]() |
同窓会の会場となった焼津グランドホテル |
フィギュアスケートで2シーズンぶりに復帰した女子シングルの浅田真央選手(25)が、グランプリシリーズの初戦として出場した中国大会で優勝しました。 浅田選手は昨シーズンの休養を経て今シーズン競技に復帰し、北京で開かれているグランプリシリーズ第3戦の中国大会に出場しました。 昨日のショートで70点台の高得点をマークしてトップに立った浅田選手は今日のフリーに臨みました。冒頭のトリプルアクセルは完ぺきに成功させましたが、このあとの連続ジャンプで転倒するなどミスが重なりました。 しかし、スピンやステップで高い評価を受けました。この結果、浅田選手は、125.75 でフリーでは3位でしたが合計得点は197.48で、グランプリシリーズの初戦となった大会で優勝しました。 浅田選手のグランプリシリーズでの優勝は2年前のNHK杯以来11回目で、グランプリファイナルを含めると15回目です。 次のグランプリシリーズは、今月27日からのNHK杯に出場する予定です。 また、ショートプログラムで2位につけていた19歳の本郷理華選手は、冒頭の3回転の連続ジャンプを成功させたほか、後半でも連続ジャンプを決めるなどフリーでは、自己ベストとなる129.97をマークしてトップに立ち、合計では195.76.で2位に入りました。 ジャンプはフィギュアスケートの華で、私のような素人にはどれも同じように見えて区別がつきません。 それでも、アクセルジャンプだけは判ります。前向きに飛んで後ろ向きに着地するからです。 フィギュアスケートのジャンプは6種類あります 。 難易度の低い順 に「トウループ」「サルコウ」「ループ」「フリップ」「ルッツ」「アクセル」 です。 フィギュアスケートは前向きに着氷するのは不可能なので、 どんなジャンプでも必ず後ろ向きに着地します 。 通常は、後ろ向きに踏み切って後ろ向きに着地しますから、1回転ならシングル、2回転ならダブル、3回転ならトリプルと言われます。ところが、この6種類のジャンプの中で 「アクセル」だけは、前向きに踏み切りますので半回転余分に回ります。3回転の場合が「トリプルアクセル」となります。 |
![]() |
ジャンプ別基礎点 |
トリプルアクセルの基礎店は8.5、基礎点に加え、1つ1つの演技の出来映えを評価するGOEと呼ばれる加減点があり、ジャッジは+3から-3で評価。 その平均値を足したものが技術点となります。従って、トリプルアクセルに成功しても、技術点はジャッジによって5.5から11.5まで分かれます。 女子の公式試合でトリプルアクセルを決めた選手は伊藤みどり、トーニャ・ハーディング、中野友加里、リュドミラ・ネリディナ、浅田真央、エリザベータ・トゥクタミシェワの6選手のみで、その中に日本人が6人中、3人も入っていて、その3人がいずれも名古屋の山田満知子コーチ指導の東海クラブの出身者です。< |
![]() |
中野友加里選手 |
![]() |
リュドミラ・ネリディナ選手(ロシア) |
![]() |
エリザベータ・トゥクタミシェワ選手(ロシア) |
私が会長を務めている大学同窓会が私の故郷焼津で開催されました。帰省するのは2013年10月06日に母の100歳の長寿祝いに駆け付けて以来2年ぶりです。 同じ学科を卒業したのは40名でしたが12名が死去、1名が消息不明、5名が病気療養中で22名が出席対象者で、そのうち15名が出席しましたので約68%の出席率でした。 この同窓会は2000年に第1回を長野県・松本の浅間温泉で開催し、伊東、氷見、舘山寺、下諏訪、伊東、東京、姫路、伊東、倉敷、下田、名古屋、知多、城崎、鳥羽に続けて 16回目をこの焼津で開催することになったわけです。 幹事は持ち回りでアイウエオ順に従ってきましたが次回で幹事一巡することで、会員の高齢化等も考慮し、今回のような一泊旅行の年間行事は廃止することを提案したところ、会員の猛反対を受け、止むなく廃案にすることとなりました。会員のこの一泊旅行にかける思いが伝わってくるのを感じ取りました。 会場となったのは、焼津市から静岡市に海沿いに通ずる県道から分岐する山道の先に在る焼津グランドホテルでした。この県道は、絶壁沿いの大崩れと言われる崖路で、私が小中学生時代には車が崖から転落する事故も多かったことを記憶しております。現在はそのような事故を防ぐために、海上に迂回する「石部海上橋」が海に突き出して造られております。 |
![]() |
石部海上橋 |
![]() |
上空から観た石部海上橋 |
古事記や日本書紀に記載されてヤマトタケル伝説によれば、今から約2千年前、12代の景行天皇の第二皇子のヤマトタケル(日本武尊)が父の命により、東方の豪族を制圧すべくこの地に赴いたとされております。 その折、この地方でこの地方の豪族の火攻めに遭いました。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽したことから、この地が焼遣(やきづ=焼津)と言われるようになったとされております。 そのことからこの時使った剣は、出雲でスサノオ尊がヤマタノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたと伝えられ「草薙の剣」と称されております。 小泉八雲が東海道線の車窓から観た焼津の海が母国のギリシャの海に似て深そうに見えたことから夏休みを焼津で過ごしたことから焼津の名前が知られるようになりました。元々、焼津は鮪、鰹の水揚げで日本一になったこともあり、更に焼津港所属の第五福竜丸がビキニ岩礁で水爆による放射線を被曝したことから、焼津は全国的に知られるようになりました。 今年の9月6日のNHKの番組で「焼津は日本一危険な街」と報道されました。街の中心部が海に近い位置に在ることがその理由とされております。既に40年前にそのような指摘を受けた焼津は、かって荒波が押し寄せた堤防の沖合を埋め立てて更にその沖合に巨大な防潮堤を造り、住民へのハザードマップを周知徹底させるなど、日本一津波対策を講じている街と私は思います。 |
![]() |
焼津沖合の巨大な防潮堤 |
明応7年(1498)の明応東海地震による津波で、焼津市坂本にある林叟院という寺院で2万6千人の死者があったとの記録が残っております。この死者数は、東日本大震災の1万8000人、明治三陸津波の2万2000人を上回り、日本史上最大の地震津波と言えますので、少なくともかっての焼津は津波による危険度では日本一だったかも知れません。 焼津グランドホテルでの同窓会は朝食後流れ解散となり、私は兄夫婦に車で焼津市内田尻の特養で療養中の母に面会に活きました。満102歳の母はベッドに伏せって目を閉じており、問いかけても目を開けようとしません。でも、介護の若い男性が声を掛けると目を開けるのです。 2年前の10月6日に面会した時、母に「私は誰ですか?」との私の問いに「知らない」とはっきりした口調で答えくれましたので、認知症が相当進んでいるようでした。その母の顔を見詰めていると、小学校の入学式に連れて行ってくれたこと、浜辺を手を繋いで散歩してくれたこと・・・などが過ってきました。こうして、懐かしい故郷で旧友、兄夫婦、母親との再会を果して、掛川で久しぶりに新幹線に乗り換えて帰宅の途に着きました。 |
前 頁 へ | 目 次 へ | 次 頁 へ |