アンコールワット十字回廊の森本右近太夫による落書きについての解説

カンボジアのクメール王国は衰退し、既に廃墟になっていた17世紀のアンコール・ワットに、結構周辺の国々から訪れていた人たちが居たことが、回廊などに記された落書きによって判っております。落書きは中国語が多いようですが、意外にも日本語も10数例見付かっております。中には1612年に訪れたというものあり、訪問者の出身地は、大阪、堺、肥前に肥後などです。関西は商人で、九州は武士(浪人)という傾向が有るとのことです。

日本人の落書きの中でも明確に文面が解読できるのは、肥前の武士、森本右近太夫によるものです。彼は、肥後の加藤清正の家臣、森本義太夫の息子でした。清正の死によって肥後が混乱したことから嫌気がさした彼は、肥前の松浦氏に仕えたようです。松浦氏は領内に平戸を持ち、国際的な貿易港だったこともあって、森本右近太夫には朱印船に乗る機会に恵まれたようです。そこで、彼は父母の菩提を弔うために噂に聞く「祇園精舎」を訪れるめに、1632年(寛永9年)に日本を出発しております。落書きには、朱印船に乗って明国経由でここに辿り着いたと記されております。

当時は、鎖国前でしたので、彼のように海外に渡航することは可能で、多くの日本人が東南アジアに出かけて、タイ(アユタヤ)、ベトナムのホイアン、カンボジアのプノンペンには日本租界ができておりました。祇園精舎は、当時の日本では仏教の聖地と考えられ、仏教の信仰に厚い人たちにとっては一度は訪れてみたい憧れの地だったようです。そして、その祇園精舎がアンコールワットであるとの間違った情報が、日本租界から伝えられていたようですので、森本右近太夫は間違えてアンコールワットに着いたのではなく、当初からアンコールワットを目指していたものと思われます。

この落書きは、十字回廊の柱に漢字で記されておりますが、カンボジア内戦時代にポルポト派の兵士がペンキで塗りつぶしたため、デジカメで撮影しても漢字を明確に識別することは困難です。それでも、最近ペンキが剥がれてきたため、下の画像に見られるように高級一眼レフで撮影すれば、下の画像のように何とか識別できそうです。

右から左に縦書きされた漢字が読み取れる、内容は下記のとおり

寛永九年正月初而此所来
生国日本 肥州之住人藤原之朝臣森本右近太夫 一房
御堂心為千里之海上渡
一念 之儀念生々世々娑婆寿生之思清者也為
其仏像四躰立奉者也
摂州津池田之住人森本儀太夫
右実名一吉善魂道仙士為娑婆
是書物也
尾州之国名谷之都後室其
老母亡魂明信大姉為後世是
書物也
寛永九年正月丗日

寛永九年正月初めてここに来る
生国は日本 肥州の住人藤原朝臣森本右近太夫一房
御堂を志し数千里の海上を渡り
一念を念じ世々娑婆浮世の思いを清めるために
ここに仏四体を奉るものなり
以下略 ・・・・・
寛永九年正月七日